De profundis clamavi
ボードレールの詩にはラテン語のタイトルのものが幾つかある。
これは当時の学校教育の所産であり、その後19世紀後半になって、ラテン語・ギリシア語は中等教育から外され、古典の教養は、教養人の間ですら後景化されることとなった。
日本においても、明治期に中国古典の教育が学校教育から排除され、同じようなことが起こった。大衆化というのは、このようなレベルの低下を招く。
この古典の教養を、特別なマニア、専門家の中に封印するのではなくて、もう少し通用範囲を広める必要があるのではないか。
実際、私の生徒さんで、イギリスの小中学校に通う子たちは、ラテン語を学び、一方にはギリシア語もカリキュラムに盛り込まれていると言う。
これを社会のエリート層に広めていきたい。
我が私塾はそういう意図をもって設立したものである。
古典は先人の知恵のエッセンスであり、日常語を用いるだけでは思いつかない意想外のアイデアの生まれる源ともなり得るのである。
軽薄短小、利益第一主義が横行すれば、社会は荒れる。現下の日本の様相を見れば明々白々である。
これは聖書から採った一節だが、この部分についてだけ文法的に解析する。
de[デー]はフランス語のde[ドゥ]とほぼ同じと考えてよい。「~から」を意味する前置詞で、奪格支配。次に来る名詞は奪格(ablative)。
したがって、profundisはprofundum「深み;深淵」という中性名詞の複数奪格。
clmaviは、第一変化の自動詞、clamo「叫ぶ」の1人称単数完了(フランス語の単純過去形の働き)。
全体で、「深淵から私は叫んだ」という意味になる。
過去形には未完了過去と完了過去があることは、フランス語をかじったことがある人なら分かる。フランス語では、完了過去は、助動詞+過去分詞という複合構造を取る。ラテン語では、1語で完了を意味する形がある。
この未完了と完了という、時を立体的に捉える視点は日本語にはなく、日本語での遣り取りでは表現し切れないので、誤解を招く恐れがある。ネット上での炎上につながる恐れすらある。日本語は、文字による遣り取りに向いていない。島国の言語は、ドメスティックな論理に支配されやすく、諸民族の抗争の試練に晒されていないからである。
この点においてこそ、私たちが西洋の言語を学ぶ意味が生まれるのである。